2006年5月27日 (土)

モーツアルト

さあ 「今そこでやれ」 なんたって今日は土曜日だからな

一つのパニックが 全てを堕落させようとしている

俺は今を生きて今に死んでいる

そんな男だった

少しのずるさと 少しの虚しさを感じたけど

俺にはどうでもよかった 気に入らなかった

そうゆう事を発想する自分とさせた相手が

なんだかとても動物じみていて

吐き気 本当の嫌悪 そんな渦のようだった

無いものを欲そうとする人間は その欲望に

食われるだろう

無いものを無いと言える人間は その欲望に

立ち向かうだろう

さあ 「今そこでやれ」 なんたって今日は土曜日だからな

そこにあるべきものを 放っておけ

たまには 欲さず 求めず 関知せず

格好をつけて 酒を飲め

この乞食め

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2006年5月 8日 (月)

境界性人格障害と時代

『青年期境界例』

上記の一冊を二年程前から耽読している。なにかが魅力的でなにかが貴重だ。この誤解されやすい障害は、本当の病気以前に解明しなければいけない。心臓病や糖尿病以前に解明しなければいけないと俺は思っている。自分探しという行為自体、深く考えれば病気である。探そうとする自分が病気なのか、探しても見つからないのが病気なのか、無いものをあると錯覚しているのが病気なのか、これらは断じて学習から省かれてはいけない分野だ。そう思うので、俺は勉強をしている。

「ヒステリーがフロイトの時代の典型的患者であったように、ボーダーラインはわれわれの時代の問題である」と、米国のナイトはすでに1953年に言っている。この言葉は1970年代から現在に至るわが国の精神医学界にもよくあてはまるであろう。まさしく境界例はわれわれの時代の問題である《青年期境界例P7引用》

俺はここ2年程で、ある一定のアーティストと境界性人格障害(あるいは自己愛性人格障害)の関連性について考えてきた。1980年冒頭から出没したPUNKムーブメント。ハードコアやジャパコアと呼ばれる一群、ジャンルなどに多岐に枝分かれし様々なすれ違いや争いもあったようだ。PUNKと境界性人格障害の関連性は多分にあると私見を述べておこう。もっと言えば、メジャー、マイナー、プロ、アマに関係なく、アーティストを志す大方の人がなんらかの共通点と関連性を秘めていると思う(統計を取っていないし、取り方も分からないのであやふやだけれど、直感でそう思う)

これらは本当に私見であり、素人のぼやきでしかない。けれども俺はこの発言に対して強い確信をなぜか得ている。芸術は疎外感や劣等感から発する怒りから生まれているのかもしれない。非行や犯罪がそうであるように。なんて格好をつけたけれど、どうでしょうか?今回はこの位にしよう。

そう言えば、分裂病を理解出来るのは分裂病だけだっていうけれど、それじゃ境界例を理解出来るのは境界例だけなのでしょうか?どう思いますか。それではまた次回。

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2006年4月24日 (月)

滅びの文化

昨日はずっとセンチメンタルに汚染されていた。なぜって、ただでさえ毎夜の強制的な退屈感や虚無感に苛ついていたのに、昨日のあの噂だ。一気にドコーンと落ちたって仕方がないよ。何かを終わりにして新しく生きたい気分になってしまう。ちょうど、AVを見ていて胸糞悪くなりビデオデッキをたたき壊すようなもんだ。馬鹿らしいことは言いたくないが、ビデオデッキもAVもまた、どっかの街の安売りで買ってくるんだけれど。分かるかい?この循環は気味が悪い。本当に。

新しく生きるか……なぜ人間って動物はこれほど阿呆なんだろう。新しいも古いも無いのにね……欲を張って格好つけて威張ってみせるんだろう……善悪も正邪も何なんだろう。罪が人間をどうするって言うんだろうか。人を五回殺した人間の友達からすれば、この人殺しは良い人間に見えているはず。正しい人間に見えているはずだ。善悪ってパラドックスだねーくだらんよ。中道とかもねー

金ってなんだろう。金が人生の目的だなんて本気で言っている人がいる。遊びが目的だって人も。どっちもどっちだろうけど、間違ってはいない。俺はもっと違った目的で……生きていこう。違った世界で。違った文化で。そうだ。文化を創り出さないと駄目だ。コンピューターが時代を惰性にするだろう。コンピューターが人間を蝕む。ちまたの薬物が心を食い尽くすだろう。愛憎を人生をモノクロに変えてしまう。文化の創造……新しいコミュニティーと思想が時代を変える。惰性の時代ではなく-模索と探求の時代だ。

あらゆる人は物質に価値をおき、またある人は愛慾に価値を置いている。人間は精神に価値をおき、精神の向上を目的とするべきだ。俺はインポテンツでもないし金や家庭や車やブランド服が欲しくないわけじゃない。それらを否定しているわけでもない。ただこの時代の人間がそれらを持つことで自己を主張しているのを見ていると、奇妙な感じがする。精神が止まっているんだ。精神の迷路を楽しむんだ。もっと素晴らしい世界がある。文化はどうだろう。精神が全てを物語る。音楽も小説も。どうだい?俺をぶん殴る気になってきただろう?

ちょっとまってくれ。もう少し話を聞いてくれ。俺も分かっているんだ。貧困や諸処の理由があって、あくせく仕事をして金を稼がないといけないのは。分かっているんだ。なぜ貧困になるかとゆうともちろんこの文化や金の価値のおかげだ。だからこそ俺はそれらとは違った文化を創造しようという話をしているわけだ……俺の話は分かりずらいかな……

サブカルチャーで少しの動きがある。いやあった。だが世間や価値観はそこの住人を乞食を見る目つきで見るんだ。分かるだろ。多数派はいつも強靱な鎧をまとっている。権力や国家や政府。差別をするなと言う人間が差別をしている。そこからまた逆差別が起こる。ようするにそういった循環はただ繰り返すだけなんだ。意味や価値は何もない。向上の気配すらない。それにも理由があって、自分を守りたいがため……

人間は愚かだ。なぜなら精神が愚かだからだ。どう思う?何とも思わないかい?ありがとう。今日はこのくらいにしておくよ。

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2006年4月21日 (金)

御託なんて……

人間なら

ごちゃごちゃ言わずに生きろ

自分に誇りをもち

自分を蔑め

そして明日は

もっと生きろ

人間なら

汚く綺麗に生きろ

弱く強く生きろ

けれど忘れるな

自分を誇れるようになれ

自分は自分だ

そして明日は

すべてを流そうとしよう

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2006年4月14日 (金)

生きようとする俺、そしてお前達

円周をただ回っているだけの人間がみえる。始まりから終わりへと、そしてまた始まりへ。ぐるぐる回っている。ずっと周りつづけ、高度をかけあがりつづけるそれ。おい。人間様だ。人間の清らかな性質じゃないか。悪人も善人も-この点さえ守れば、行えば、なんて綺麗にうつるんだろう。思い描いてみてほしい。うんざりするほど様々な性質の人間がいる。けれど本当は一つか二つの性質なんじゃないのか。善悪でも強弱でもない。なにか未知なる、なにかだ。どう思う?

俺は今、猛烈に上で言っている図式の説明をしたい。言葉で言うよりも画像で表したほうが簡単だろうが、面倒だ。まず白い紙とペンを用意してほしい。真っ白な紙のど真ん中に点を書く。その点が始まりだ。そこから円を描く。当然円なので、始まりの点と終わりの点はくっつくはずだ(くっつかないのなら、それは最低限の絵心がないか、もしくは感覚が狂っている)

さあ、ここからだ。その始まりの点は清らかな心。そして重なっている終わりの点は哀しみ。俺が思ったのは、こんな風に人は清らかな心から哀しみに移行する。そしてそれを越えてしまうと-なんと前以上の清らかさを身につけるってことだ。これを俺は本当の成長だと思う。

だが残念なことに老若男女とわず、終わりの点の上で、哀しみのポイントで止まっている。老人よりも若者の方が、その地点で止まっているのが辛い。なぜなら、その円を一周するごとに人は次元をあげているから。老人には過去がある。とゆうのもそれだけ生きてきているのだから、それ相応の次元に住んでいる。けれども若者は別だ。生きている年数も少ないし、何よりも-自分はまだ若いからとゆう自覚もあるし、努力しだいで、やりかた次第で次元を比較的にアップさせることができると知っているからだ。この知っているとゆうのがポイント。知っているからこそ、哀しみのポイントから抜け出せないことに、本気で絶望する。老人の絶望とは質が違う。自分自身を確実に痛めつける、自虐的な八つ当たり的な絶望だ。

実はこの図式は人間の人生、毎日、心、在り方-それら全てを示唆している。人間は次元をあげていくものだ。ずるくなっても閉じこもっても、明日を見なくても自分を知らなくても-人にはちゃんとしなければならない。人を嫌っても憎んでも愛しても好きになっても-大事にするべきだ。どんな人間でも一人の人間を舐めてかかってはいけない。人間を舐めるとゆうのは、人間とゆうものを敵に回すこと。多くの人は時折ふっと忘れてしまうことがある。それは自分が人間だとゆう自覚だ。そしてだいたいの重要な関わり合いとゆうのは人間相手だとゆうこと。忘れてもすぐに想い出さなければならない。人間を裁けるものはいないとゆうこと。人間関係はとても大事なんだ。わかるだろ?こんなこと、三歳の頃、砂場の上で習ったんじゃないのか?俺は格好つけの馬鹿者なんで、ここまでの確信を得るのに今のいままでかかったんだ。

ずっと生きている人間や、生きようとしている人間をみてきた。その人達の全てはこの確信を得ている。もちろん死のうとしている人間は論外だ。俺はそのくだらんごたごたも、くだらん疎外も、くだらん苛立ちも知っている。だが本当にくだらないのはそんな事よりも、自分自身だった。さあ生きよう。どんな言葉でもいい。いくんだ。幸せはそこら中にありふれている。さあ。明日を知ろう。もっと生きよう。

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2006年4月 2日 (日)

中間発表

一二時に起きた俺は、体調の異変を感じ取った。マイノーズが詰まっているんだ『ヘクション!!』……緑色の液体が……錯覚でした。ノーマル色でした。

さて、なんやかんやらで、三日目が来た。今日は寒い。外は無闇やたらに冷え込んでいるが俺の心はぽかぽかだ。なぜ温かい心を感じているかというとこうゆう事なんだ。在り方も自分も適応も……くそくらえってこと。分からないこと、無いこと、努力のこと、全部実感のお話だから頭では分からない。だけど感じろと言われても不感症のわたくしには無理ですが……(一体なにを?この馬鹿者は昼間っからなにを喋りだしたのだ?)

自分の内に虚無を秘めている人ほど、必死になって何かになろうとする。その虚無が一定のラインを越えてしまっていたら悲しいことだ。必死の努力で何かになっている、その時々に馬鹿らしい適応さを発揮して何かになっているにもかかわらず、なんとその最中、合間合間にこういった想念に捕らわれるはめになっていく。『自分は一体何になりきっているんだろう。何の真似をしているんだろう』これほど悲しいことはない!!それらの人は、盗むことに長けている。自分が無いから盗む。ようするに他人の全てを盗む。

昼間から俺は悲しいことを書いているのかもしれない。けれども、本当に事実なんだ。こういった人は大勢いる。この盗むという行為を非難はしたくない。虚無を直視するのが辛いので何とか盗むんだ。ある女の人はこうゆう事を言っていた。

私は今女優業で成功しています。昔の私はお着替え人形のようだったわ。やっぱり今でもたまにそう思うけど、女優だしね。今と昔の違い?あまり考えたことがないけど、やっぱり自分の能力を信じたことが大きかった。それはお着替え人形の自分を悲観するんじゃなくて、尊重すること。本当にびっくりするわよ。尊重しだすと自分はなんにでもなれると思うのよ。だってそうでしょ。自分が無い私は、お着替え人形だけれど、それって何にでもなれるって意味。これって……才能だわ。ふいに感激したものよ。私って簡単な人間なのよ。

これを見ると、やはり転換に大きな意味が含まれている気がする。自分の思考を流動させること。悲観しないこと。とても難しいことだ。あるタイプの状態にいる人はこれを「無理」だと断言する。確かに無理は無理だ。憂鬱な夜はさっさと寝よう。明日を見られる状態に自分をおく、自己管理が大切なのかもしれない。

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2006年3月31日 (金)

人間の力

なんだかんだ言って、焼酎二杯目。今日はこれで終わろうと思う。だってもう少しで3時だからね。何か重大なことを内蔵から出したいと思って、また書き始めたのかもしれないな。なんだよ?俺か?もっと生きたいだけだよ。悪い成分を汗から出したいんだ。

俺はなぜが自分がとてもドラマチックな日々を過ごしている気がする時がある。実際は例えようもないほど暗鬱で退屈で半病人だが。けど、例えばある瞬間などは、風景や人物、空間や雰囲気などを感じて、何とも言えない幸福を味わう時がある。なるほど。皆さんはこれを誇大妄想だと言いたいんだろ?ふふふ・・・・・・今酔ってはいるけど、なんとか対抗してみるよ。

嘘の優越感に浸っているわけじゃないんだ。とゆうか優越感自体俺にはあまりない。どちらかというと、そう言った精神を汚いものだと思っているから。だってそうだろ?乞食を見て、自分はまだまともな生活だと?自分は彼よりも身分が上だと?ふざけるなだ。その彼がどんな人間であるにしろ、何かしらの不都合があったんだよ。だってそうじゃないか。あんまり人と自分を比べて、気持ちの良い思いをしていると、しまいに自分の尻の穴を覗かれてしまうよ?え?まさか尻の穴がないだって?おいおい・・・・・・

畜生!話がそれたな。俺の言っている幸福とは優越感では決してないってことを言いたかったんだ。なんて言ったらいいのかな・・・・・・言葉では言いにくいんだけど、それでも言うなら、感謝と慈愛かなーと思う。本当の感謝と慈愛。こんなことを言うと、そろそろどこかの輩が偽善者だ!なんて言うんじゃないかな。そうかもね。けど、そうゆう、俺の言っているような心もとても大切なものだと思うんだ。

神がいるとかいないとかそんな話じゃなくてさ。実際、何千年も前からそういった論争はあるけど、神なんて概念は人間が創ったもので。人間がうまく利用しているんだと思う。例えば不眠症の人は睡眠薬が欲しいだろ。人間には本質的に神が欲しいんだよ。でも周りを見てみなよ。誰が一体そうゆう本質的な精神安定剤を求めているんだい。

結局は一瞬の苦痛をどうにかしたいみたいだ。でもそれって本当に刹那的なものだし、とても善ではない。まあ人間ってのは悪だけど、そうゆう風な善への意志みたいな心持ち一つで、いくらでも向上出来るし、生まれ変わることだって、俺は出来ると思ってる。だってそうじゃないか?一度死のうと思った人間がそういった『向上の意志』をもてなくて、絶望ばかり繰り返していると死んでしまうじゃないの。そんな事が繰り返されると一億二千万の人々の八割は消えてしまうよ。

本当に思うよ。毎日幸福を一回でも感じたいって。欲張りにね。だから毎日を緩めにいこうと思ってる。何か問題があったら緩めに自分の意見を言おうと思ってる。だってそうだろ。そうじゃないと人間なんて向上しないと思うんだ。向上しなくてもいい?嘘だろ?そんな話を本気でする人は人間じゃないな。動物だよ。ただの猿だよ。

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2006年3月26日 (日)

導かれる者達

挫折だと思う。俺は今、相当酔っているが、とても普段じゃ味わえない神妙な確信を得ている。挫折というのは『また違った明日がある』ということだ。ようするに希望がある。希望を抱くために、このように、普段の俺のように、堕落する。

音楽を聞いていると、ふいに、俺の問題はただの挫折だと、確信する。このような生活の中で、生きようとする意志は、人間そのものを慢性的な自殺に追い込むが、それがなんだと言うんだ。事実は明白で、俺は俺を変えることができない。裏の事実とは、俺は明日を変えられる。誰もが当然のように毎日を、過ごす。俺も、そうだろう。けれども明日を変えようとする一寸の心だけが、現実に俺を救っている。

俺は様々な事を、失敗しながら学ぼうと思っている。今分かることは……

無い

けれども、俺はまた、挫折以前の俺に戻ろうとしている。そういう意識を時折、異常なまでに感じてしまう。やはり戻りたいと。それはなにも以前と同じではない。戻った俺は、強くなっているはずだ。それは痛みを分かっている強さだ。誰もが何を言おうとも明日を見ている。

信じられないほどの酒を飲み、堕落と卑屈の渦中にいる俺でも、やはり明日を信じている。信じたいと心から望んでいる。幻影を追うのでもなく、無闇やたらに明日を妄信するのでもない。確証として、俺は感覚を得ている。それは、人間が人間として、傷付け、傷つきながら生きようとする、猛烈な、抑えの効かない意志である。

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2006年3月22日 (水)

転生

彼はここ2年ほど、波はあるにせよ、猛烈で執拗な『繰り返し』を経験している。繰り返しを存分にしてみた所で、得たものなどないようだ。あらゆる自己不定感と焦慮、それらが莫大な遺産になることなど……あるはずがない。

『自信喪失』

そいつに尽きるだろう。あらゆる匂いを嗅ぎ分ける彼は内心思っている。『もう匂いをかぐのも疲れたな』だがそう思ったとたんに、眼前に現れる光景と言えば空虚な無色な光景であった。その為に、その空虚から逃れる為に、彼は走り続けようとしている。

『道化』

なんとゆう悲劇だろうか。身を削って芸をする。だが得られるものはない……深い哀愁と諦念……自分を削って削って――なんて死にもの狂いなんだろうか……

『Another Tomorrow』

本当なんだろうか。馬鹿らしい考えだが、彼は明日を変えられるだろうか?繰り返しの日々から何かを得て、現実を認識することができるのだろうか。恐れずに直視することが可能だろうか……明日は待ってさえくれない。昨日は永遠に待ってくれている。どうにか意味とゆう光を見いだしてもらえるのを……

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2006年2月27日 (月)

退屈な装飾

日常を狂舞しながらも、ふとした時に我にかえる。いったい人々はなぜそれほどまでに将来を気にしているのか。どれほど自分が大切なのだろうか。

何食わぬ顔で生きていけるほど大らかではない。余裕無き人々が、同じような人々と争っている。誰もが平凡で俗な己を隠したがっている。演舞する姿を信じ込ませたいために。

誰もが必死になりたがっている。けれどそれが見つからないと言う。理由や意味が。それらが無ければ必死にもなれないのだろうか。口達者が女を騙す手口に似ている。女の変わりに己の欲を巧妙に騙している。哀れすぎる逃げ腰の渡り鳥。

けれども、人が人に言える事というのは本当なのだろうか。人間関係の争いや損得は本当なのだろうか。弱いと言っている者が本当は強いんではないのか。制御不能な心を唄っている者が一番の詐欺師なのではないのか。

一体何が本当なのか。いや正解はないだろう。真偽もなければ善悪もない。人間はそこにいて、そうして、そういく。その過程で少しの飾りを誇張して表現し評価する生き物なんだ。ヒステリックな女は人間の標本だろうか。

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2006年1月27日 (金)

ニヒリストの本意

多くの諦念を考え出すとそこは空虚だし無意味ではないだろうか。その眼光は光り輝き、良くも悪くも物事を察するのだ。男の眼光は険しく人を不快にさせた。大抵がくだらなかった。もしかすると本当にくだらないのかもしれないし、その可能性を含んでいたのかもしれない。

そんなことを誰が分かるのだろうか?

本質の話や気の持ちようの話なんてものは、誰が言うまでもなく万人が知っている。世評に人が殺される事があるのならば、その死人は世評にではなく自分に殺されたのだ。あるいは虚栄に。あるいは意識に。あるいは本質や気やその操作不順によって。私はこの死人を間抜けだと思っている。だがこの死人の近親はまさしく私であるし、それを否定できない。

馬鹿という奴が馬鹿だ

言葉遊びはこの世から追放してくれ。私は出来る限り美句をはき出さぬようにと毎度苦心している。私は美しくも珍しくも無いものを、さぞ大袈裟に誇張して表現する人間が嫌いだ。私は核心に触れられたくない一心で大袈裟になっている。さもなければ冗談を身につけている。誰も人一人が空虚な核心を隠す為に必死になっているなどとしるよしもない。

お前はまた冗談を言って誤魔化しているのか

思想の一つを、生き方の一つを、在り方の一つを、認識の一つを、感性の一つを、信じ切る事は危険だ。一つを信じれば自然に排他的になる。私は素直に生きようと思っている。平等に人々に接して生きようと思っている。アイデンティティの取得なんて、人が鬼になる第一歩だ。おっと、私は不信者のようになってしまった。こんなポジションは遠慮したい。どこもかしこも遠慮したい。一番まともな人達はこぞって言う。「そんな事を言っている奴ほど、自分をどこかのポジションに置いておきたいと必死になっているんだ。探しているんだ」

読みあいにはなにもなく平等にも排他にもなにもない

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2006年1月24日 (火)

権利主張

 産みの苦しみの為……美と神妙、貴重への愛と探求の為……私は惨めな道化を見せつけていたのかもしれない。その滑稽な姿に畏敬の念を抱く者がかつては存在していた。人々は大笑いしながら厳しい目で私を睨み付けていた。そのかたわら、知らぬふりをしながら、私はせっせせっせと使命を果たしていた。

 人智と叡智を越えた。走馬灯のごとくわき出てくる認識の数々は、私を猛烈に鍛え上げ、それらを越えさせた。知は私の内的世界において盲であり、視野狭窄を誘発させる要因にさえなるのだ。知は虚勢でありインテリである。重きをどこへと置くのか……こんな事をも真剣に考えていたのかもしれない。

 無垢と狡猾の狭間で揺れていた。だがそれでも精神の歩調が華美に流れていた……いつの時代にも、無垢を死守できる人間はそうそういるものではない。猜疑心と利己的精神とに犯されていくのだ。修行僧のような私を憐れんでくれるな。俗世の軋轢に心身ともに疲労させられ、俗世のあらゆる盲を呑みこんだ者達のように、私は好きでこうやっている。倫理を探し何か別のものも……ただ私はこの世にいながら、おおよそこの世の人間ではない。観察する為、認識する為、私は生きているのだ。

疎外から旅立つことを学んだ
疎外は私の始まりであり終わりでもあるだろう
疎外は試練であるし原動力でもある
疎外を憎めば出生したことすら憎まなければならない
そんな馬鹿な話はこの世でもあの世でも
私は聞いたことがない
たとえ耳に入ったとしても
全身全霊を賭けて否定するだろう
誰も私の出生をとやかく言う
権利をもたない
誰も人の内的財産についてとやかく言う
権利をもたない

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2006年1月23日 (月)

中立の孤独と使命

甘美な幻想に強い親和感がある。ひどく強引に幻惑されているし、それは変わることはないであろう。なんておもむきのある情景と統一感だろうか。

~フラッシュバック~
~遊離した意志~

おぉ…逃避行だとか禺者だとか、そんな戯言を一蹴してやろう。
ここには無い-そこにも-

何ももたずに私は完璧に遊離した。変調意識だとかなんだとか知らないが、私は更なる高みへといざなわれたのだ。ある点で修行と忍耐であった。過酷な試練であった。

左と右を両方考えてみろ。両方の視点に立って、現実でその行動を起こしてみろ。瞬きをしたその瞬間にありとあらゆるものが鮮明に映し出された世界にいた。

私はそこではじめて中立の意志を学んだのだ。

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2006年1月19日 (木)

災害

一つの敵意といつ、いかなる手段で、いつまで、いくらの強弱で騙そうか、利用しようか、または-

生まれながらの死人

人は何がどう分かるのか分からないのか、知っているのか知らないのか、生きたいのか否か、生産したいのか否か、それとは別に-

自分の空間だけは死守するべきだ

パズルのピースがはまらない。気のきいた詩人なら待とうとか壊せとか別においておけとかいうだろう。また何かしらの虚栄に取り憑かれている輩はそのはまらないピースから真理を読み取るだろう。だが私は思うんだがな。くだらん綺麗事と虚栄の埋めあいなんて姑息な真似を飽きもせず何千年も続けている偏執狂には悪いが、まず第一、元からはめられない。すなわちパズルをやる人間には作られていないって事かもしれない。もしこの弁が正しいのなら多くの賢人は根本がずれているので詭弁になる。それもよっぽど迷惑で神の激怒にふれさえする詭弁だろう。

だから最近災害が多いのかな

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2006年1月14日 (土)

おい!人間!

それぞれがもつ厭世観には、それぞれの度合いが有りそうだ。少ない経験から判断すると(時には少ない経験や知識の方が的を得ている。物事なんて別けてしまえば少量の塩みたいなもんだ)普段の生活の中でまともな面を操作出来る人間ほど-巨大なものなのかもしれない。反動で。反動?そうか。俺はよくこの言葉を使うが(脳が未発達なんだ)こんな考えじゃ永遠の繰り返しと錯綜の中からでれない気がする。このような事柄を考える事によって、俺はうまくやっているのかもしれない。同時に階段を上り下りしている(それが趣味のごとく)惨めな男になっている。俺は自分の事を「俺」なんて呼ばずに人間と呼べばいいのかもしれない。

「おい。人間。」

そうすれば俺の肩こり、首こりは直り、リンパが腫れる事もなくなり、軽くなるかもしれない。-疎外と厭世-以前こんな詩を見た気がする。

俺がもし、幾分でも何か言えるのならー疎外と厭世ーみたいなタイトルの詩は書かない。そんな甘えたような、他人任せのような、誰の足で立っているのか分からないような責任転嫁の詩はいらない。

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2006年1月 9日 (月)

大海の縮図

疑問の多くがふとした瞬間にわき出てきます。それも根源的な問いです。大海の疑問です。人はこれを哲学などと言いますが、僕には分かりません。文学もわかりません。学問に関して何も分かりません。足し算が出来る程度なんです。けれどもし僕が、奇妙な数学の文法が出来る人だとしたら、この多くの疑問は解決されたでしょうか。それこそ皮肉な疑問です。一体今の時代に生きている僕らが、なぜこうなっているのか。戦後に生まれれば違っていたでしょう。でも何の縁か今この時代に生きています。

人が本当に物事についての理解を得る日はいったいいつなんでしょうか

何千年後に果たして得ていますか?そもそも答えとゆうのは、立ち位置を決めて出すものです。立てる場所もない僕が一体なにを言っているのか…甚だ疑問です。これはちょっとしたシュールな疑問です。

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民衆を救う

最近読んだ本にはこんな事が書かれていました。人生を有限と考えるか無限と考えるか。その本では無限と書かれておりました。人は生まれて灰になるまでが人生だと思います。けれども本には、例に仏法系列の本ですが、無限とあります。言語の問題は置いておいて確かにそういった考えも可能です。が、実証がないし霊や魂といったものは目には見えない。本には夢心地のような理論が展開されております。もし僕が人生を無限と考えているなら焦りも憤りも減少することでしょう。けれども一般的な僕の感覚では、それはすなわち諦めているような気もするのです。諦める為の理論のような気がします。本当に万人に一つの思想を定着させる事が、また信望させる事が可能でしょうか。

うまくやれば(色々な作戦と知能があれば)可能です。

けれどもいったんそうなった所で、どこに永遠にその契約が続くという保証があるのか。人は自分の選択により生きています。当然止める事も出来ないでしょう。この点がどうもしっくりこないのです。霊魂が永遠に生き延びるなどというのは、あてつけの理論(これはもう創作の域)ですよ。

こんな事を書いているととたんに宗教批判者のごとく写ってしまうから文字って怖いですね。批判だなんてとんでもない。僕がもう少しまともなら(皮肉かもしれませんよ?)狂信していたんだと思います。宗教の本質はおいておいて、悪くはないと思います。三大宗教(最近宗教という単語を書くのが億劫です)はどれも素晴らしいです。人間関係やそのたもろもろについて。認めています。けどその戒律を守らずに生きている人を多く見てきた僕は思うんですよ。

なぜその戒律が「絶対」であるのか。

得に宗教の常套句には「信じない者は好きにやりなさい、又は地獄に堕ちる」などとある。これは無責任であり理論の放棄であり勝手気ままの証でもある。神とゆう概念、古代の書物、キリスト、釈迦、多くの聖職者とその従者は幻ではないのでしょうか。

それともただ単に僕が子供じみているのでこのような欺瞞を見逃す事ができないのでしょうか。

本当の教えや救いというのは好き嫌いも、気にいろうがいるまいが、全ての人をくみ上げてくれる思想ではないのか。その点、宗教とゆう分野はよく分からない。僕の言っているのは理想でしかなく幻影を追っている馬鹿者かもしれない。ただどこかの狂信者のような振る舞いは僕には出来ない。これはどんな分野にも言えるが不幸である。本当の不幸である。これを幸福と思われる人は僕と変わってください。人格を入れ替えましょう。

しかし、全ての人をくみ上げる思想なんてのは存在するのでしょうか。話は戻りますが僕は宗教からはずれた人達を見てきました。その人達は地獄人なのでしょうか?裏切りの刺青でも入っているのでしょうか?そんな事はありません。こういうふうに考え出すと宗教とゆうのは本当に手の込んだ嘘のように見えます。今閃いたんですが、もし自分の親が宗教とは無縁の人間(特に人生一般において)だとすれば、その親の子供達はどうなるのでしょうか?その子供達は親を地獄人と見て育つのでしょうか。そんな馬鹿な話が過去にあったでしょうか?そしてその子供達が悲惨な目にあっていたら、その親の子だということでほおっておくのでしょうか?宗教団体のお偉いさん達は目の前で苦しんで飢えている子供に「お前は私の思想を信じていない。当然の報いだ」と言うのでしょうか?馬鹿げています。この話は本当にしゃれにも冗談にもなりません。ただの妄想話です。本当にこうゆう話に入ってしまうと際限がなくなります。熱っぽくなってしまいますしね……

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