最近読んだ本にはこんな事が書かれていました。人生を有限と考えるか無限と考えるか。その本では無限と書かれておりました。人は生まれて灰になるまでが人生だと思います。けれども本には、例に仏法系列の本ですが、無限とあります。言語の問題は置いておいて確かにそういった考えも可能です。が、実証がないし霊や魂といったものは目には見えない。本には夢心地のような理論が展開されております。もし僕が人生を無限と考えているなら焦りも憤りも減少することでしょう。けれども一般的な僕の感覚では、それはすなわち諦めているような気もするのです。諦める為の理論のような気がします。本当に万人に一つの思想を定着させる事が、また信望させる事が可能でしょうか。
うまくやれば(色々な作戦と知能があれば)可能です。
けれどもいったんそうなった所で、どこに永遠にその契約が続くという保証があるのか。人は自分の選択により生きています。当然止める事も出来ないでしょう。この点がどうもしっくりこないのです。霊魂が永遠に生き延びるなどというのは、あてつけの理論(これはもう創作の域)ですよ。
こんな事を書いているととたんに宗教批判者のごとく写ってしまうから文字って怖いですね。批判だなんてとんでもない。僕がもう少しまともなら(皮肉かもしれませんよ?)狂信していたんだと思います。宗教の本質はおいておいて、悪くはないと思います。三大宗教(最近宗教という単語を書くのが億劫です)はどれも素晴らしいです。人間関係やそのたもろもろについて。認めています。けどその戒律を守らずに生きている人を多く見てきた僕は思うんですよ。
なぜその戒律が「絶対」であるのか。
得に宗教の常套句には「信じない者は好きにやりなさい、又は地獄に堕ちる」などとある。これは無責任であり理論の放棄であり勝手気ままの証でもある。神とゆう概念、古代の書物、キリスト、釈迦、多くの聖職者とその従者は幻ではないのでしょうか。
それともただ単に僕が子供じみているのでこのような欺瞞を見逃す事ができないのでしょうか。
本当の教えや救いというのは好き嫌いも、気にいろうがいるまいが、全ての人をくみ上げてくれる思想ではないのか。その点、宗教とゆう分野はよく分からない。僕の言っているのは理想でしかなく幻影を追っている馬鹿者かもしれない。ただどこかの狂信者のような振る舞いは僕には出来ない。これはどんな分野にも言えるが不幸である。本当の不幸である。これを幸福と思われる人は僕と変わってください。人格を入れ替えましょう。
しかし、全ての人をくみ上げる思想なんてのは存在するのでしょうか。話は戻りますが僕は宗教からはずれた人達を見てきました。その人達は地獄人なのでしょうか?裏切りの刺青でも入っているのでしょうか?そんな事はありません。こういうふうに考え出すと宗教とゆうのは本当に手の込んだ嘘のように見えます。今閃いたんですが、もし自分の親が宗教とは無縁の人間(特に人生一般において)だとすれば、その親の子供達はどうなるのでしょうか?その子供達は親を地獄人と見て育つのでしょうか。そんな馬鹿な話が過去にあったでしょうか?そしてその子供達が悲惨な目にあっていたら、その親の子だということでほおっておくのでしょうか?宗教団体のお偉いさん達は目の前で苦しんで飢えている子供に「お前は私の思想を信じていない。当然の報いだ」と言うのでしょうか?馬鹿げています。この話は本当にしゃれにも冗談にもなりません。ただの妄想話です。本当にこうゆう話に入ってしまうと際限がなくなります。熱っぽくなってしまいますしね……
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