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2006年5月31日 (水)

猫を見つめる老人

もうあと何日かで今月が終わろうとしている。とゆうことは俺は60日間休まずに働いたことになる。今となりの家が白アリ駆除をしていて、その匂いが強烈だ。除光液のようなシンナーのような、そんなたぐいの匂いがして俺は気分が悪い。そんなことを思いながら楽しくのんでいる俺もいる。

関係が終わるとゆうのはとても運命的でそして悲しいものだ。そしてそれはほとんどの場合、決してどうにか出来る問題ではないと思う。つまり人間の愚かさをここから学べるのかもしれない。まあそんなことはどうだっていいんだけれど。

最近の俺は酔っぱらって寝るってのが癖になっている。毎日に、こんなに充実しているはずの毎日に、俺は呆れ果てて虚しく感じてしまう。もちろん毎日が虚しいんじゃなく、自分が虚しいだけなんだけれど。

格好をつければ追いつめられるような毎日が確実にある。俺は本当の自分を感じてしまってとても苦労する。まあどうだっていいが。なあ、どうだっていい。

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2006年5月30日 (火)

タウンとの決裂

今日久しぶりに10時に起き出し服を買いにいった。結果は、ただ物色し落胆し無様に引き返しただけだ。俺には随分前から着たい服が見つからず、着たい服がどんなものなのかイメージできない。とはいえ何着か試着したんだ。まあ随分と惨めな格好で最低だったが……

身だしなみに関心がなくなるとゆうのは、とても危険な症状だ。俺の場合は関心はあるんだが、自分の意志がないだけだ。街はとても気分の悪くなる光景ばかりだった。俺はとことんまで劣等感の底を蠢いていた。見窄らしい格好であるいている俺は、その服装を変えることもできずに苛々しっぱなしだ。逃げるように帰ってきたんだ。まあいつものことだ。

考えてみてくれよ。街にでてこれほど惨めな思いをするんだ。とゆうことは俺にいく場所なんてあるんだろうか。ない。これはとても生きにくい。この生きにくさとどう折り合いをつけるかが俺のテーマになっていくだろう。

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Get Away Run & Change Moment

ありったけの穴を
しっかりと見据えた
過去の真実を
嫌でものみこむさ

恐れやしないだろう
行き場所みやたらねえ
どでかい穴を見ろ
触れなきゃ進めない

堕ちたライフにキックオフ
get away run
堕ちたお前さcome on
get away run

あの時逃げたのさ
自身にしみこんだ
繰り返しの人生
もう俺は逃げたくない

堕ちたお前さ baby
get away run
堕ちたお前さ come on
get away run

過去をひきずるボーイ
明日をあるくのさ
今を彷徨うボーイ
明日を歩くのさ

今を掴むのさ
今を変えるのさ

(2004/9/24)

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strange boy & your heart

内緒の一発きめて 俺達マジでいくだけさ
今夜もあの子とdrivin’night
ウイスキー飲んで始まりさ
ドアを蹴り上げ いくぜare you ready
今すぐ二人 街へ出掛けるのさ

最初の一発one more time
俺達もっと楽しむぜ
踏みだすワンレースお前と
とろけたrock'n'roll歌おうぜ
揺れるmy baby もっとare you ready
今すぐ二人 ゴール駆け込むのさ

最期の一発きめて 明け方のシーン見てみなよ
悲しむ事なんてないさ 
これからまだまだ続くから
夜の蒼さに だぶるhappy tonight
だんだん二人 夢に包まれて

Strange Boy 今そこでやれ
ぐずぐずしてる 暇はないのさ
Strange Boy 今そこでやれ
誰かなんて 関係ないのさ

(2005/12/5)

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2006年5月29日 (月)

越えていく信念

なんだかとても悲しい気分だ。俺が親しんでいた人の多くが懲役にいく。正直にいってやりきれない。だが懲役へ行くとゆうことは、それなりの罪を犯しているとゆう事だから当然だ。俺のやりきれなさは、なぜそれほどまでに人生を捨てて、罪を犯してしまうのかってこと。当人にはそれなりの訳がある。けどどう考えたって悲しい結末じゃないか。

誰だって自分の親しい人が、顔を蹴られたり殴られたり袋叩きにされたりしたら気分が悪いはずだ。けれどそうやられるだけの理由があるんだ。そう考えると俺は、家出少女がレイプされた場合の、その家族の親の気持ちが分かる気がする。

俺は今夜耐えられそうにない。とても大きな悲しみがある。ふと思ったが、カウンセラーとゆう仕事は、患者に自分の運命を託すようなふしがあるように思う。祈るようなふしがある。結局は自分がどうしたいかってゆう話なのかもしれない。

俺の実の父親は死んでしまったようだ。まだ分からないがきっとそうだと思う。誰もがそうであるように俺ももっと強く生きなければならない。騙されようが利用されようが生きなければならない。御託はいい。今の俺には必要がない。本気なら、それだけでいいだろ。本気なら、生きていても許されるだろう。そうだろ。

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生きて欲しい

足と肋骨と頬の骨を折られた俺の大事な人がいる。彼は色々な事情から明日から入院する。涙を流した俺は、彼から預かっているCDを回したい。そしてそれを捧げたい。

死んじまいたいほどの苦しみ悲しみ
そんなもののひとつやふたつ
誰もがここあそこに
ほら しょい込んでるもの
腰をおろし ふさぎ込んでも
答えは Nothing

ぶっ飛ばしたいほどの怒りや悔しさ
そんなもののひとつやふたつ
殴られた痛みはTryへの
ワンステップ 尽きせぬ自由は
がんじがらめの不自由さの中にある

その痩せこけた 頬のままで
果てしない迷路の中を
人はみんな 手探りしてでも
Stay Stay Dream

ひねくれかけた瞳のずっとずっと奥に
もがいている もうひとりの俺がいる
一番怖いものは 勇気だと知った時
自分の弱さに思わず鼻をつまんだ

もうこれ以上先へは 進めない
たとえば挫折が目の前に立ちはだかる
そんな夜は心で命の音を聞け
たかが こんな自分は!と
一度だけからかってみなよ

長渕剛(Stay Dream)

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2006年5月27日 (土)

モーツアルト

さあ 「今そこでやれ」 なんたって今日は土曜日だからな

一つのパニックが 全てを堕落させようとしている

俺は今を生きて今に死んでいる

そんな男だった

少しのずるさと 少しの虚しさを感じたけど

俺にはどうでもよかった 気に入らなかった

そうゆう事を発想する自分とさせた相手が

なんだかとても動物じみていて

吐き気 本当の嫌悪 そんな渦のようだった

無いものを欲そうとする人間は その欲望に

食われるだろう

無いものを無いと言える人間は その欲望に

立ち向かうだろう

さあ 「今そこでやれ」 なんたって今日は土曜日だからな

そこにあるべきものを 放っておけ

たまには 欲さず 求めず 関知せず

格好をつけて 酒を飲め

この乞食め

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2006年5月24日 (水)

酷くつまらない午前二時

今日の仕事は気分的に颯爽と過ぎていったように思う。ブログの更新に忙しい。俺は今夜も退屈でうなっている。何事もないような日常の中で、本当に何事もないことに焦る。つまらない気分になる。実際につまらない行動にでる。

こころ定まらない内にこんな事を書き出す俺もどうかしてる。ただの退屈紛れかもしれない。何も感じないような夜はそっとそれでいるべきだろう。

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2006年5月23日 (火)

不明な衝動

布団をかぶり目をつむっていた。鋭い想念に捕らわれている。それは暗澹としたものでよどんでいた。思考はストップしてしまい何かの妄想か何かの観念によって身をよねる。

久しぶりのこの感じ。俺は精神が死に向かっていると感じ始める。それは急速にとばしている自殺マシーンのようだ。この文章に特に意味などない。ただ俺は死なずに精神が死んでしまうのではないかと俺は怖がっている。精神を無くした俺はきっと生きてはいけないだろう。

緩やかに女のことを考える。それは無数の女で無数の害なのかも知れない。最近になって俺は、女に手ひどくもてあそばれている気がする。俺は穏やかだが、俺は俺を出したいとゆう気持ちを起こした。だが、それもまたやめた。あまりにも自分が無防備すぎて危険なんだ。

俺を救うのは女か将来かもしれない。そのどちらかだろうか。自分を自分で救済できないなんて間抜けな話だな。そして手元には酒が用意されている「俺は間違いなくアル中になるな」とかなんとか想像する。まあ当然だろう。救われない人間はそうなるんだから。

ここ数日の日記を読み返して、自分が弱きになって女に救いを求めているといった事実を思い知らされる。そこまで俺は何もかもに過少評価をしているのかもしれない。自分が女に騙されて自殺するか、女を殺して刑務所に入るか、アル中になって精神病院に入院するか、それくらいの未来図しか描けそうにない。こんな状態はまずいと思う。

女を殺すまではいかないにしても、女を殴って訴えられるとか実家へ帰られるとか愛想尽かされるとか、そんな気がする。とてもマイナス思考ですね。シテキさん。

さて将来について考えてみよう。将来について、どんな在り方であれ、自分は一人のような気がする。つまり心をどうにも出来ず酒ばかり飲んでいる気がする。男の挫折は、乗り越えれば綺麗な勲章だが、無理ならとても惨めなものだ。そして人格は卑屈なほうへと向かっていくんだろう。

なぜこんな暗い想念に捕らわれるんだろう。俺は本気で精一杯、目一杯楽しんだことがない。これはとても虚しいもんだ。今日はなんて日なんだ。最低な日だ。まさかこんな状態になるとは夢にも思わなかった。

自分を捨てながらまっとうする生活はこれほどまでに意味がないのか。そもそも「自分」とは何のことを言っているんだ。それは衝動であったりなんだったりする。くだらんね。子供じみた戯言をまた言っている。本当に、だらしがない。けど今はそれでいい。今は。

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ばびろん

今とても古いお世話になっている人とラーメンを食べてきた。俺の胃は少し重たい。また今夜も退屈しそうだ。酒を飲んでいるがとてもつまらない感じがする。さて、今夜と歩こう。

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2006年5月22日 (月)

退屈で退屈で生きそうだ

日曜だ。どうしょうもない退屈感を拭えない。俺の体調は普通だ。俺の精神も普通だ。日に日に目から光りが失われている自分に気が付く。普通の一般人よりも劣っていると感じる俺は、なにくそと思って生きようとする。最近ふいに昔の感覚を思い出す。

自分が随分と老け込んでいるとゆう感覚。そしてあの一瞬の恍惚を俺ははっきりと覚えている。子宮へ回帰した感覚らしい(どこかの心理学者がそんなことを言っていた)俺のくだらない点は金があってもどうにもこうにもする事がない点だ。そして今の生活には、何かしたくてもその時間すらない。

俺がこうゆう昔話をするってことは、きっとこの現実とこの退屈から逃れたいんだろう。俺は以前より、金、生気、労働を得た。そうしてふとした時に自分にはなにかが欠如していると感じる。それは自分の信念や自信なのかもしれない。まさか、女がどうとか欲しいとか言うつもりなんてないんだ。

女が出来てなにか変わるのだろうか。今の俺から次の俺になるための橋渡しを女がしてくれるのだろうか。まず、ありえない。俺に女が出来るってほうがどうかしている。そうゆうめんでは、不能者なんだ。俺はもっと自分を知るべきだ。

自分の過信から生まれた挫折、それに対抗するには他人ではなく自分で進まなければならない。色々な親密な人からは、お前は随分せっぱ詰まった考え方をしている。と言われる。俺も、そう思う。なによりその考えが苦しい。けれど俺も男。格好をつけたいんだ。

おもしろくない。人間はとても狭い動物だ。お互いがどうにもやりようのない気持ちを持っていて、それを正当化するために理由や訳を話したがる。さてもうこんな時間だ。また振り出しの戻ったってわけだ。

もう一度人間を愛する事から始めよう。それが打開策だ。

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2006年5月21日 (日)

明日よもう一度

今帰った。6時半。今日は店の最中にスナックに行ったり、店が終わってからカラオケへ行って、ファミリーレストランに行ったりした。総じて俺は酔っている。

実を言うと1ヶ月前からもう一つのhpをはじめた。すぐに内容を消去して今までほおっていた。そして2日前からまた新たなる再開、航海をした。

今晩の少しの時間とこれからの少しの時間はそのhpに集約されると思う。そして時期と機会があればここで掲示したい。それにしても俺の生活は自分を痛めつけているのと変わりないのかもしれない。

俺によくしてくれる人が過去に何人かいた。決して多くは無いがいたんだ。こんな俺を受け入れてくれる人がまだいたんだ。

最大の問題はこの自己評価の低さかもしれない。こんな事を言いながら俺は自分に自信を持っている。けれどその自信も脆いものなので、崩れてしまうと俺はもう外すら歩けないだろう。

俺はこんな自分を捨てることが出来ない。窓の外から朝日が光っている。俺に涙は無いが、それでも何かを感じる。ひょっとするとこの世界の評価、特に自分がこの世界に対する認識は誤りであって、実はもっともっと素晴らしいものかもしれないとゆう気を起こさせたりもする。

根本はやはり生きるか死ぬかだ。生きる気がないなら死ね。本当だ。この言葉を何千回も自分に言う。けれど、俺は歩こうとしない。

俺は生きたい。それはもっと向上的でなければならない。俺は成長しなければならない。昔と同じなら--それは本当に意味の無い日常を過ごしたことになるだろう。

俺にとって、自棄になる時期も過信する時期も過ぎたように思う。けれどやはり真ん中は嫌だ。なのでもっとどうにかしなければならない。俺はまだ若いのにあらゆる若者から疎外されている。いや、自分からはぐれているのかもしれないし、自分の趣向と合わないのかもしれない。

劣等感と疎外感はここからくる。だからなんだ?俺が俺を愛することがもう一度できるのならば、そんな弊害はすべて打ち倒せる。現に以前はそうだったんだから。

なあ。もっと生きるべきじゃないか。色々な問題と苦悩があろうが、そんなもの屁のたしにもならないんじゃないか。おい。お前。もっと生きろよ。もっと自分に責任をもって、真剣に生きろ。分かったか?

そして俺はうなずく。明るいとは言えない気持ちで。

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2006年5月17日 (水)

アルコール

11時頃に店を閉めることができたので、その足でジョギングをした。家の近くの公園を二つ回って、その途中に乞食がボロをつけて眠っていた。その瞬間に今日の俺のコースは決まった。つまり乞食を中心に円周をえがこうとしたわけだ。結局、乞食は俺を放置して、俺は必死で気違いのように回っていた。

汗をびっしりかき帰宅した俺は風呂へ入り、今ここにいる。酒を一杯だけ飲んだら今夜は早めに眠りたいと思う。なんせこの50日近く、酒をぬいた日ってのは2~3日くらいなんだ。それ以外はほとんど大量と名付けていいほどに飲んでいた。結果は、俺は以前より体重が増え、依存の魔の手にカモンカモンとされ、頭が少しばかりぼーっとする。それらを相殺する為に数日前からジョギングをやりだした俺がいる。

俺にはトータルで300人??くらいの友達がいて、昨日その友達みんなに聞いて回ったところによると、俺のような飲み方で毎日費やす人間はいないらしい。さすがにドキっとして自分を考えてみた。俺はたぶん18歳の途中くらいから今くらいの飲酒量と頻度の生活に入っていた。その内の1年くらいは、特に身体を酷使していたと思う。俺はやはりあの頃の陶酔と痛みを忘れていない。なぜなら同時に快感を得ていたからだろう。

数日前に友人の家で酒を飲んで帰ってくるなり嘔吐した。次の日はさすがに調子が悪く、仕事も酒を飲みながらやらないと出来ないような状態だった。総じて俺の生活には多くの頻度で酒が登場する。そして俺は酒に助けられ酒を利用しながら生活を送っている。こうゆうもんなんでそれなりに酒と親和感が高まっているってわけだ。さて。ぼーっとした頭で考えよう。自分の将来に責任をもつこと。すなわち……

気をつけよう

それが無理なら俺の人生は根本的に消滅するだろう。あらゆる意味がその存在を脅かされ、あらゆる努力が虚しいものとなる。この一杯を飲み干したら本当に早めに寝よう。

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2006年5月13日 (土)

それでも歩こうとする人々と苦悩

あるスナックで人々が戯れ、何かを忘れ、何かを確信して踊りに没頭していた。俺はまたいつもの癖でそれらを眺め、分析し、そして愛した。愛そうとする努力がそうさせるんだ。温かい心と苦悩を感じた俺は、まさにこの己を考え始めた。底のない劣等感が俺には備わっていてそれと俺の横で演舞している人を比べてしまう。はっきり言ってここで落胆するのは何よりも簡単で、俺に言わせると悪循環で飽き飽きした衝動の一つだ。最近になって、色々な人達の人生と言葉によって、少しの転換と方法を学んだ。

それは人を見るんではなくて世界を見るといったことだ。もう一つは誰もが完璧ではなく、人間として生まれた以上、完璧などとはほど遠い存在だと認識する事、信じる事だ。それらを想い出すと、人と自分を比べる時に、すべてを尊重したくなる。誰かと争いがおころうとも相手も自分も尊重したくなる。俺には声が聞こえた……

『結果よりも原因を尊重せよ。そして原因のわけ、すなわち苦悩を憐れんでやれ。忘れてはならないのは、正しい人間などいない。なぜならば善悪の判決を下すのは、裁判長でもなければ神でもない。そして自分でも相手でもない。一人一人に備わっていて、いつも輝いている良心と情がそれらを分別できる。唯一それらが。』

今、俺は心地よい感動と広さに包まれている。人と人が初対面の時に猛烈に、ほとんど過剰過ぎる病的な反応で競いあう、あるいは駆け引きの渦中に考える恍惚や不安ではない。俺の言っているのは、自分が人を見る時、人を判断する時に感じるもの。だが俺はまだ忘れていない。人をそのような目で見るとき、やはり一人一人に不幸が、いや哀しみがえづいている。人間として生まれ、人間として死ぬ過程で培われる疑心や狡猾、そして形のない絶望、悲哀がそれだ。

だから

俺は生きよう

俺を知ろう

人を知ろう

情を知ろう

そして

明日と握手

神と握手

悪魔と握手

俺はもっと生きられるだろう。俺はもっと知ることができるだろう。俺はもっと何かを信じ何かを愛することができるだろう。

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2006年5月 8日 (月)

境界性人格障害と時代

『青年期境界例』

上記の一冊を二年程前から耽読している。なにかが魅力的でなにかが貴重だ。この誤解されやすい障害は、本当の病気以前に解明しなければいけない。心臓病や糖尿病以前に解明しなければいけないと俺は思っている。自分探しという行為自体、深く考えれば病気である。探そうとする自分が病気なのか、探しても見つからないのが病気なのか、無いものをあると錯覚しているのが病気なのか、これらは断じて学習から省かれてはいけない分野だ。そう思うので、俺は勉強をしている。

「ヒステリーがフロイトの時代の典型的患者であったように、ボーダーラインはわれわれの時代の問題である」と、米国のナイトはすでに1953年に言っている。この言葉は1970年代から現在に至るわが国の精神医学界にもよくあてはまるであろう。まさしく境界例はわれわれの時代の問題である《青年期境界例P7引用》

俺はここ2年程で、ある一定のアーティストと境界性人格障害(あるいは自己愛性人格障害)の関連性について考えてきた。1980年冒頭から出没したPUNKムーブメント。ハードコアやジャパコアと呼ばれる一群、ジャンルなどに多岐に枝分かれし様々なすれ違いや争いもあったようだ。PUNKと境界性人格障害の関連性は多分にあると私見を述べておこう。もっと言えば、メジャー、マイナー、プロ、アマに関係なく、アーティストを志す大方の人がなんらかの共通点と関連性を秘めていると思う(統計を取っていないし、取り方も分からないのであやふやだけれど、直感でそう思う)

これらは本当に私見であり、素人のぼやきでしかない。けれども俺はこの発言に対して強い確信をなぜか得ている。芸術は疎外感や劣等感から発する怒りから生まれているのかもしれない。非行や犯罪がそうであるように。なんて格好をつけたけれど、どうでしょうか?今回はこの位にしよう。

そう言えば、分裂病を理解出来るのは分裂病だけだっていうけれど、それじゃ境界例を理解出来るのは境界例だけなのでしょうか?どう思いますか。それではまた次回。

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2006年5月 6日 (土)

Scene 1

彼は最近になってブログに人間があまりこない事に落胆して、どうにかこうにか人を集めようと案を練っていた。毎日冗談とも本気ともとれる奇怪な文章を書いているだけでは人が集まらない。自分の書いている事はただ何時に起き何時に寝たっていう程度のものかしら。生活習慣の記録を誇大に書き綴っているだけかしら。などと、ある程度真実に近い自覚を起こしたのであった。

その自覚は戦慄に似た恐怖を男に与えた。恐怖は3日続き、その3日間といえばなんとも悲愴なものだった。著しく情緒不安定になり、何か少しの事で、例えば音の一つが気に入らないというだけで、大興奮を起こして憤慨したりするのであった。被害者から『訴えようかしら』などと半ば本気で言われる始末であった。

そんな過酷な日々の最終日、真夜中近くに彼は最期の打算を勘定した。そして策をろうした。そこにいたのは、必死に人を集めようとする健気な彼であった。彼の策は、知っている小説家の名前を二三ブログに書き記すことだった。さも知り合いの如く書き記した。何百年前の小説家をネタに、集客を計ったのである。明日を願って彼はぐっすりと眠った。

昼前に目を覚ますと足早にパソコンに向かって、ブログをチャックした。カウンターをのぞき込む彼は輝かしい目をしていた。だが次の瞬間には輝きを失ってしまった。全くカウンターが回っていなかったのだ。昨晩の策はまさしく失敗したのである。彼は例えようもないほどにしょげかえり、何か卑屈な笑みを絶えず浮かべていた。

それから二時間後に彼は一つ二つの文章をブログに記した。それまでの間、彼はパソコンの前に座って、何かを検索していた。ヤフーの検索窓に『詩的求核』といれて。私は私でその詩的求核とゆう名は以前どこかの雑誌か、HPかで読んだことがある。少しその記憶について記してみよう。

詩的求核というのは『精神の断片』といった熱狂的な散文を書き綴っているらしい。彼は正体不明の自称物書きで、その書き物は連続しない物語性のない断章だった。記憶が定かではないが、彼は今でも生きていて、なんらかの文章を書いているらしい。私の個人的な感想だけれど、詩的求核っていう名前もなんとも意味深だと思う。

話が逸れてしまった。つい私まで肩に力が入ってしまった。戻そう。パソコンの前に座っている男は詩的求核の精神の断片をネットワークを使って捜し出そうとしたのだった。それを見つけるまでに2時間もかかったのだった。なぜならば、その文章はアンダーグラウンドの奥の奥に掲示されていたのである。誰も寄りつかない場所にひっそりと、その文章は残されていた。彼は今度はその詩的求核をネタに人を集めようとしている。盗作や著作権の問題を無視して、彼は投稿した。限りない微笑と期待をうかべて。

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俗人の病理

俗人の病理と心理について語らせていただきます。俗人とは罹患者であり生きてはいるが生殖と毎日の仕事でしか意味を見いだせない可哀想な種族です。俗人種族は無意味です。なぜ俗人が病にさらされているのか。どのような病なのか。代表的な罹患者の症例をあげましょう。

まず第一に精神活動のレベルの低さ。第二に仕事をもち家庭を築けば幸せだと信じている。第三に社会独特の汚れにおかされている事に気付かない。または気付いたとしても、生きていく上では当然の事だと甘い幻想にしがみつく。第四に人生が茶番だとは一切考えず異性を熱烈に愛したりする。第五に相性の悪い人間達と平気で戯れ、群れをつくる。第六に金銭に対する欲が強すぎる。第七に、これが最も病的な部分です。「自分は正常だと思い込み、正常とゆう範囲をたくみに創りだし、範囲内から漏れる者に嫉妬する」これら以外にもありますが代表例です。

分かりますか。俗人がなぜ自分を正常人だと思いこむか。それは狂おしいほどの嫉妬と諦念です。俗人はみな多かれ少なかれ狂気へ惹かれています。なぜなら本来、人間の中身とゆうのは狂気なんです。狂人がこの秩序と規則を考え社会や文明を作り上げたんです。きっとそうゆう無意識的な潜在意識といいましょうか。その部分に何世紀も前の狂人の輝きが皆にながれているんです。

俗人は渇望しています。狂気を昔のように取り戻そうとしているんです。だがそれは精神活動のレベルの低さゆえに、自身の中に眠っている狂気を膨張させる事が出きないのです。そして直感的に一瞬にして諦めます。

これには私も驚かされましたが、俗人にとっては「生か死か」とゆうくらい、重要な渇望だったとゆう事でしょう。本当に絵に描いたように簡単に諦めるんです。そこで俗人はおとなしく死を選べばいいものを足掻きだします。這いつくばってでも生きて優越感に浸ろうとします。

そして私には分かったんです。本当は諦めたわけではなく、少量の諦念を誇大化しそれを信じ込んでいるだけだと。その証拠として嫉妬狂になります。俗人なりの防衛本能でしょう。本来、狂人として生きなければならないのにそれが直感的に不可能だと知った時の悲しさ、無意味さ、虚無感、死、それらから逃れたのです。

逃れたわけは、俗人は精神の稚拙さから不可能だとゆう事に直面する事が出来なかったからです。だから少しの諦めの念を誇大化してでも、その悲劇から逃れとゆうわけです。それ程までに俗人は狂気への渇望、一体感を熱望したのです。この必死に死にもの狂いで求めつづける姿を想像すると、いくら私でも同情の念すらわきます。

そして諦念の意識は次第に嫉妬へと変わっていきます。この感情は生涯に渡って俗人の心を支配しています。俗人は狂人になれない愚かな自分を正常だと思い込む事で何とか存在の価値を作り上げたんです。その価値を偽物だと俗人はまったく気付こうとしないのです。きっと怖いのでしょう。

俗人の特技は妄信です。自分達は正常だと妄信し、先ほど述べた正常とゆう範囲内から漏れた者達との差別化を計ります。彼らの思考は浅はかで差別化する事によって優越感をえようとしているようです。そして俗人は狂人を目の敵にし追いつめたりします。また的外れな敗北者の偏見のようなものを、社会に埋め込みます。何をしようが何を言おうが俗人はどこか憎めない所がありますが、とても存在に意味があるとは思えません。

結論を言います。俗人とは成るべき自己になれず嫉妬狂の可哀想な種族です。どうか狂人さん達は彼らに優しさを与えてあげてください。嫉妬を責めないでやってください。そして全国民の大半を占める俗人さん。私はとてもあなた達が可哀想で仕方がありません。あなた達は心に直面する事が出来ず、敗北者として社会を汚染し、優越感とゆう感情をたくみに利用して生かされている種族です。あなた達には何の意味もありませんが、妄信と誇大化、嫉妬深さだけは誇っていいと思います。嫉妬に狂った目付きと精神の稚拙さと狂気に飢えた姿は、きっと末永く未来永劫に伝えられることでしょう。(2005/6/17-詩的求核.com)

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広い空間と流れた空間

今日は休肝日。2杯しか飲んでいない。運動をしてさっさと寝ようかな。

久しぶりに何か本を読みたいような衝動に駆られる男がいる。本棚にはとても綺麗に整頓された魂の書物がずらっと並べられていて、彼はその内の二三を吟味し、今夜の友に選ぶ。彼は突然に吹き出した。ドストエフスキーのチャーミングな顔面を見て笑ったのだった。隣の『戦争と平和』(トルストイ)を見てまた笑った。トルストイの風貌はやたらに仙人や賢者のようだった。杖を持たせればもっとおもしろい。そろそろ本を決めなければならない。夏目漱石の『我が輩は猫である』をちらっと眺める。だが、あまりのページ数に唖然とする。彼はじっと壁を見つめて爪を少し噛んで煙草をとった。火をつけた。

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2006年5月 4日 (木)

賭けてみろよ

今晩思ったことは、正当な怒りの表し方ならOK.けれど正当ではない表し方なら、ほとんどまるごと自分に降りかかってくるだろうってことだ。俺は今晩のある一瞬、時間でいえば20分ほど、怒りと妄想の世界にいた。激しく憤慨し、激しく混乱し、激しく自棄になっていた。今の俺は落ち着いている。正直に良かったと思う。

俺も、また俺みたいな人間も、もっとちゃんとした方法で怒りを伝えなければならない。そうする方法を学習しなければならない。学習出来ないのならば、そこには自滅と罠と終演が待っている。これらすべては慢性的な自殺に他ならない。俺はもっと学びたい。なぜなら死にたくもないし、うんざりした気分でくたばっていく自分を眺めていたくないから。

けれども難しいだろう。落ち着いている俺が、混乱した俺をふり返って言っているのだから間違いない。混乱している時は、何一つ分かっていない。本当の馬鹿者だった。本当の犯罪者だった。そして本当の正直者だった。

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