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2006年2月27日 (月)

病と隠者

私は二年ほど前から顎関節症にかかっている。発症の原因はストレスだろう。日々の営みの中で鬱憤や焦燥を解決出来ずに過ごしていたのだから、身体にぼろが出るのは仕方がない。身体が痛むと仏教を想い出す。「衣食住」を。精神が痛むと自嘲の笑みを浮かべ迷いだす。「闇になげる意味」を。良い時には何もせず、悪くなれば何かしらに頼る。こんな事が今日の不遜な時代では自然の摂理としてはたらいているようだ。どこまで慣れていくのか。人間達。

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退屈な装飾

日常を狂舞しながらも、ふとした時に我にかえる。いったい人々はなぜそれほどまでに将来を気にしているのか。どれほど自分が大切なのだろうか。

何食わぬ顔で生きていけるほど大らかではない。余裕無き人々が、同じような人々と争っている。誰もが平凡で俗な己を隠したがっている。演舞する姿を信じ込ませたいために。

誰もが必死になりたがっている。けれどそれが見つからないと言う。理由や意味が。それらが無ければ必死にもなれないのだろうか。口達者が女を騙す手口に似ている。女の変わりに己の欲を巧妙に騙している。哀れすぎる逃げ腰の渡り鳥。

けれども、人が人に言える事というのは本当なのだろうか。人間関係の争いや損得は本当なのだろうか。弱いと言っている者が本当は強いんではないのか。制御不能な心を唄っている者が一番の詐欺師なのではないのか。

一体何が本当なのか。いや正解はないだろう。真偽もなければ善悪もない。人間はそこにいて、そうして、そういく。その過程で少しの飾りを誇張して表現し評価する生き物なんだ。ヒステリックな女は人間の標本だろうか。

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2006年2月11日 (土)

ご託なんて知らないぜ

くだらない逃避行は止めだ。姑息で巧妙な手段を無意識に行うこと、それは無様だ。また俺は引っ越すがそれがなんだ。自分にとって重要な要素はなんだ。劣等感、罪悪感、羞恥、被害者意識……そんなものか?いや違う。重要なものは当然のように眼前に現れている。「生きること」であるし、また「生きようとする意志」である。何かがあろうがなかろうが、生きるんだ。自分の身は自分で「真剣」に守れ。そこでそうしていることが守っていることだと?まさか?笑わせてくれるな。それは単なる言い間違えか錯覚だろう。まだわからないか?自分を守れ。「自分」を守れ。「堂々」と守れ。「心」に従え。防御本能なんてもんじゃない。自分の本質を、出所を知るんだ。ここにいるべきか、それとも他か-俺もお前も分かっているはずだ。

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2006年2月 1日 (水)

Catastrophe Sparkle

ある一人の芸術家の作品を鑑賞していた。作品についての意見は置いておいて、その本人の意志について。それの本質は「愛情」であった。男女関係のものでもなく友人関係のものでもない。皆に対する愛情である。(知っておいて欲しいのは愛情が激しいのならば、その人が未熟なら憎悪も激しいということ)この創り主は未熟であった。いや--本当の意味での思索探検家は未熟でなければいけないのかもしれない(ひょっとするとその素質が絶対なのかもしれない……)もしそうならば未熟とは滑稽ではなく、悲惨である。真摯であればあるほど悲惨である。その内でも小心者は滑稽で空虚である。もっと程度が低い者はユーモアや喜劇に走る。

宗教的な愛でもない。この素質をどう説明すればいいのか……力量の範囲を超えてしまっている。ただ私がこの人に伝える事が出来るのならばこの断片を伝えたい。

「誤解は多いでしょう。その誤解の多くは妬みです。彼らにもあなたのように無垢でいたいとゆう強い思いが無意識の内に潜んでいるんです。愛憎の表現において、いや、真摯さにおいて、あなたの右にでるものはいません。あなたの愛は宗教的ではありません。本質的な故意的な虚栄や見栄とは無縁でしょう。あなたの愛はまさしく、あなたの天性でありあなたの資質です」

根源的の問いを今の時代に発する人はそれほど多くありません。この時代は見栄に塗り固められています。この時代は上っ面だけが誇張されて評価されます。けれど私はそのような嘘とは決別いたしました。矛盾の無い人間だとは言いません。だが生活は矛盾に苛まれたとしても心だけは、心の片隅だけは死守します。これを失えば私は廃人です。それも屁理屈ばかりゆう妬み深い廃人です。ここに宣言します。私は死にません。私の内蔵が悲鳴をあげようとも私は心を死守します。私は生きます。

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回帰した魂

出来る限り、現実的に思案できるように記します。

夕方頃から月末なので保護司の所へ行った。いつも通り店先で話をしていたら途中で来客があり、イスを横へスッと移動してぼけーっとしていた。10分ほどそうしていると客はへこへこと帰って行き、また僕はイスをテーブルの中央へ持っていき会話体制へと入った。そこから1時間半ほど喋った。合計で2時間ほど語ったことになる。この月1回の密会が何度目になるのかは忘れたが、これほど長い時間を共にしたのは初めてだ。

劣等と虚勢について

この話は実は以前から出ていた。以前から彼は(保護司)は僕の本質的錯誤を過信だとしていた。ようするにそれは傲慢であり夢見がちであり日常白昼の事を指す。なぜこの過信を彼は指摘するのか。僕には見当がつく。毎月提出する連絡ノートに(これは毎月提出する近状報告のようなもの)書く一文があって書き方は違えど、毎回「自分の能力を活用したい。発揮したい。示したい」とゆうような事柄を書く。きっとその事に関して、過信と思われているのだろう。自惚れと思われているのだろう。だが本当に大切な問題はここから始まった。

「僕は心の隅では過信しているかもしれません。いやしています。けれどもっぱら日中には顔を出さない顔があるんです。真夜中にこそこそと強引に現れるそれは、紛れもなく過信などとは対極にあり、自信喪失であり昏迷であり挫折であります。それらはひっきりなしに毎晩訪れるのです」
「分かっているよ。君は自信なんてこれっぽっちもない。ただ虚勢のためだ」
「ええ。虚勢ですよ。それもユーモアに混ぜ込んだ憂鬱です。巧妙に隠蔽された虚勢です。見栄です」
「人は言うよ。自分を知る事の出来るのは自分だけだと。君も分かっているはずだ」
「分かっています。僕は虚勢が嫌いです。だから良い服を着たいと思わないし格好を付けたいと思いません。それに秀才ぶりたくないし博識ぶりたくないし……高圧的になりたくないし……金だっていらないと思っています。けど……例の夜の顔はそれとは逆なんです。見栄も張りたいし自分の心を守りたいし……虚勢をはらずにはいられないんですよ……僕がなにより愚かなのはこの二つの要素を制御出来ないことなんです。それと選択出来ないことなんですよ」

この後に僕は尋ねた。「虚勢はくだらないと思います。けど人間は大小は違えど虚勢を張って生きているものじゃないんですか?」「そうだね……君はとても良いことを言っているよ」彼はそう言って昔の想い出話を始めた。そして最後に「君は世の中の1つも知りはしない。ただ知っている振りをしている。なぜなら自分すらも確立出来ないでいるだろ?もう一度いう。君は何も分かっていない。これからが君を豊かにするだろう」僕はこれを激励だと受け取った。一言「がんばります」と言って。店をでた。僕は今日、随分久しぶりにハッとしている。随分久しぶりに自分と話ができる。虚飾した自分ではなくて無垢の清らかな大志と。そして未来の子供と。いや大人のような子供と--

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